2019年 9月 24日

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仁義なきブログ

おっさんになってから、仁義なき戦いハマる。これまでバイオレンス映画ってあまり好きでなかったんだけど、ふと、見てみたくなりまず最初の1本を借りて見た。妻子も始め一緒に見だしたんだけど、映像がガサツでよくわからない、とかで直ぐに寝た。僕は始めから菅原文太に胸ぐら掴まれ「どないな」と脅されてるようで、一瞬でもっていかれた。一気に全シリーズ見てしまった。

こんなめちゃくちゃな殺し合いの何がそんなに良いのか、何故惹かれるのか、わからなかった。良い悪いで言えばきっと悪いに入るべきで、暴力を肯定するべきで無いと今でも思う。それでも問答無用、圧倒的に揺さぶられるのだ。説明なんか出来ないし、したくないんだけど、多分これかなというものがある。

多分、人間賛歌なんだ。これは殺し合いの人間賛歌。ヤクザの話だけど、テーマは村社会のこじれであり、日本そのものであり、町内会でも、喫茶店でも、学校や会社でも仁義なき戦いは頻繁に繰り広げられている。僕は切羽詰まった感じが好きなんだろう。お店でも楽に稼ぎたいけど、毎日完全燃焼したいし、無茶苦茶忙しいのが笑えるくらいに好きだから、多分一生ジタバタしてる死んで行くんだと思う。金持ちになってハワイとか行って、美女らとフラダンス踊って、高級なレストランで食事をして、とか、絶対したくない。1年中遊んで暮らす、毎日が夏休みが理想、とか、何が楽しいねん、て思う。余裕ある生活から幸せはやって来るんだよーってふわふわした本とかブログを否定してるようだけど、僕はそうは思わないんだから仕方ない。

激烈に追い詰められた時に人の本質が問われると思う。じゃあ借金して愛人作ってこじれまくって追い詰められてみいやと言われると、それも嫌なんだけど、。どうしようもないことがたくさんあり、力で解決しようと必死になってる姿に感動する。自分を貫こうとしてるんじゃなくて、自分はもうこれしか道がない、みたいなぶきっちょな人間が好きなんだと思う。多分その理屈じゃない不道徳な世界が間違いではあるけど真実のように見えるんだと思う。

悩みない方がいいのに、悩んでいたい。お金たくさん欲しいのに、効率悪いこと選んでる。苦しみや悲しみが好きなんだ。そんな気がする。駄目ですか、いや駄目ですね。だからいいんです。

いらっしゃいませ

いつも当たり前にいらっしゃいませー、言ってたらなんかわからなくなってしまい、何だ?いらっしゃいませって、いらっしゃってるお客さんに対して「いらっしゃいませ」て変だ。外国では「ウェルカム」とか言わないそうで、会釈して挨拶する感じらしい。日本のインド料理店でインド人の人が「シャイセイ」をやたら連呼するお店があった。それはもう日本語でもインド語でも何語でもなくなっているんだけど、とにかく「シャイセイ」貫き通して堂々としてる。

僕が20代の頃に働いてた喫茶では、ママが「いらっしゃいませー」のせーって伸ばしたら駄目よ!ってよくウェイトレスの女の子叱られてたな。別の店でも色々ないらっしゃいませがあり、「しゃーせー」とか「いらっしゃいまっせ」とか「いらっしゃいませどうぞようこそー(超早口)」とか、酷いのでは「せー」だけ言うてる人も居た。逆にスタバではいらっしゃいませ無くて、「こんにちは」や「おはようございます」を採用してて一瞬、言わんのんかい、ってなるけど気持ちいいですね。挨拶は良いですね。僕は、スーパーのレジでも挨拶されたら必ず挨拶で返す。いらっしゃいませーだと無言のまま。だけど、急に明日からお店の方針変えて、「挨拶のみにしようぜ」って決めてもよほど徹底しないと難しいものです。今んとこは「いらしゃいませ、おはようございます」とふたつ付けるようにしてる。

最近読んだ本で「音楽と雑音の違い」は心が入ってるかどうか、ってことで、心ある「いらっしゃいませ」は音楽、心ない「いらしゃいませ」雑音だ。と書いてあった。なるほど、全部そうだなと思うた。たまに超か細い声で「いらっしゃいませ~」て言うてる店員さんいるけど、あれは言わないほうが良くて、雑音なんだろうな。

全然関係無いけど、前にいたお店で、お客さんが入り口付近にいらっしゃった時の思い出。遠くからそのお客さんに届くように声張って「いらっしゃいま」まで発したところで実は食事を終えて会計のレジ付近に来てるお客さんだと、気がつき「ありがとうございました」にチェンジせねばと慌てて言おうとした結果「いらっしゃいました!!」って大声で叫んでしまった。スタッフ全員「は?」てなってて超恥ずかしい思いをした。

最後までしょうもない文読んでくれて、ありがとうございました。